interview**

 



【No.2】

−10歳のときにイギリスに行ったわけですがそれはお父さんの仕事の関係とかですか?

違います、自分が勉強しに行きました。

−それではイルマさんが先にイギリスに行き、イルマさんがイギリスにいるからご両親もイギリスに行ったわけですか?

上の姉が私が行く一年前に美術の勉強のためにイギリスに行っていました。最初姉がいるので何も心配しないで行っていいよと言われたのですが実際に行ってみると寮に入れられてしまいました。

−パーセルスクールはどうして選ばれたのですか?

音楽学校ですが年齢制限もないし音楽を勉強しながらほかの科目も勉強できたからです。

−ご両親は普通の学校に行かせたいとか言っていませんでしたか?

そういう考えもあったようですが小さいときから音楽をやっていたので音楽学校へ行かせるのもいいのではないかと考えたようです。

−ご両親は音楽家になることに反対ではなかったのですか?

たぶん私が音楽が好きだと言ったのでさせてくれたのではないかと思います。最近両親から聞いた話なのですが、特に父の話ですが、私が音楽家として成功するなんて思ってもいなかったそうです。特に周りに音楽の才能がある子が大勢いて学校の演奏会などを父が見て絶対音楽はだめだと思ったそうです。私も自分がピアニストになるなど思ってもいませんでした。普通に教養としてピアノをやるくらいでピアニストとして最高になろうとかまったく思っていませんでした。いつもまわりに天才といえるくらい上手な人がたくさんいたので自分の気持ちが落ち込むときがたくさんありました。そこで思ったのは自分で曲を作って自分で演奏すればいいじゃないかということです。

−パーセルスクールでの学科はどこだったのですか?

初めはピアノ科でしたが二年後に作曲科に移りました。

−学校の雰囲気はどんな感じですか?イギリスというとハリーポッターのような学校のイメージがありますが。

まったく大きな「家」と考えてもらえばいいと思います。いまは移転してもっと大きくなってしまいましたが。私がいたときはそれほど大きくなくて全校生徒が100名くらいの学校でした。森の中に学校がありましたし。

−一般人からすると英語とかは大丈夫だったのだろうかと考えるのですが。

一言もわからないし勉強したこともなかったので最初は大変でした。一ヶ月ぐらいたったときにあまりにもどかしくて泣きながら父に電話したことがあります。英語を勉強してからまた来るのではだめなの?と。すると父は「そう思っているなら一度韓国に帰って来い」と言いました。でも韓国にはまったく行きたくなかったので、考えてみるので一週間だけ時間をください、と答えました。そして一週間後に「まだ少しいたい」と電話してそれからは少しずつよくなっていきました。

−どれくらいで英語は大丈夫だと思うようになりましたか?

半年くらいですかね。まだ小さかったので友達と遊びながら自然と覚えていきました。

−友達はどんな方たちだったのですか?韓国人やアジア人とかはいませんでしたか?

いたにはいたんですが日本人や台湾人のお姉さんなどで私の年代にはいなかったのです。下の学年には韓国の子もいたのですがイギリス生まれだったので韓国語を一言も話せなかったのです。

−学生時代の面白いエピソードとかありますか?

楽しいことよりも悲しいことのほうが多かった気がしますね。面白いことといえば、レッスン室で練習していたときに自分の曲を練習していたのですが、ある友達が入ってきて「何の曲?」と聞くので「自分の曲」と答えたところ「おお、それいいね。僕にも弾かせてよ」というので楽譜を書いてあげたんです。それがおそらく作曲家として何かあったんじゃないかと思ったのです。実はその友達のお父さんがイギリスで有名なドラマの作曲家だったんです。

−それはいくつのときですか?

イギリスにいってそれほどたっていなかったので11歳くらいだと思います。

−「ルマウル」の掲示板などにイルマさんの学生時代のエピソードなどほかにも掲載されていましたよね。

それは日本人の男の友達で韓国の女の子を好きになったんです。それで私のところに来て韓国の子はどんな音楽が好きなんだ、どんな話をすればいいんだ、とかいろいろ聞いてきたんですよ。

−寄宿舎に住んでいたわけですが女の子と知り合うのはどういうときだったのですか?

もちろん学校では会いますよね。もちろん寄宿舎では会えませんが、一ヶ月に一度だけ男子寮と女子寮で行ったりきたりしていい日があったのです。その日をずっと待ってました。(笑)

−その頃好きになった女の子というのはアジア人ですか?それとも金髪の女の子ですか?

その頃は英語の勉強をしようと必死だったので女の子と話すことなんてできなかったのかな?う〜んあまりかわいい子がいなかったのかもしれない。(笑)

−ロンドン大学のキングスカレッジではどの学科だったのですか?

作曲科です。

−このころにはもう作曲で行こうと考えていたのですか?

はい、その通りです。

−実際大学の授業というのはどんな感じなのですか?

作曲科なので技術的なものよりも理論が多かったです。音楽史であるとか音楽分析といったものが多くて非常に退屈なものでした。2年生の時に「なんで自分は音楽が好きなだけなのに音楽学校に通っているんだろう?」と思ったのです。高校のときから音楽学校だったのでどうして大学に来てまで同じようなことを勉強しないといけないんだ?と思ったわけなのです。それで一ヶ月くらい大学に行かなかったことがあるのです。大学に行かなければいけない時間に「学校行って来るね」と家を出て遊びにいってビールを飲んだり、ひとりで映画をみたりとか、してました。

−でもまた勉強したくなったのですよね。

ええ、卒業しないといけませんので。(笑)

Harrison Birtwistle先生はどんな感じの人でしたか?

独特な方でしたね。夏なのにマフラーを巻いていたりとか。どんな人かというと、大学に入ったころに試験があって曲を準備して持っていくという課題があったのですが、先生の意図とはまったく違う曲を準備してしまったのです。それでプレゼンテーションをしようとしたときまったく違う課題だったので、持っていった楽譜を見せて「すみません、課題を間違えました」と謝ったのです。するととりあえず楽譜を見てみよう」と言って楽譜をみたのですがしばらく見たあとで「ふざけるな!」と投げてしまったのです。怖い先生でした。

−その先生から一番学んだものは何でしたか?

一番学んだのは「音楽は作曲家の意思どおりに演奏されるべきである」ということでした。ある有名なソプラノ歌手が学校に来て自分達の作品を歌ったことがあるのですが、ハイソプラノの人だったので非常に高めの音を使った曲を書いたのです。遅めで長く発声しなければならない曲だったのですが、歌うほうは苦しいので私に「もう少し早く歌ってはいけないのか?」と言ったのです。そこで「それでいいですよ」と答えたところ先生が出てきて「だめだ、それは作曲家の意図と違うのだから」と言ったのです。そのときに作曲家というのはそのような拘りが必要なのだ、と学びました。

−そのことが今の活動に役立っているなぁと思うことはありますか?

それからは自分の曲なのだから、という自信をもつようになりました。曲を作っていて人はこの曲をどう思うだろうか、テンポをもっと早くしたほうがいいだろうかなどと考えることもあったのですが、それ以来自信がついてそういうこともなくなりました。

−学校ではクラシックを勉強していたわけですが現在のような音楽を作り始めたきっかけは何ですか?

高校生のころからそういったジャンルの曲を書いていたのですが、大学に入ってからアルバイトで演奏したりレコーディングをしたりして多くの人が望んでいるのはこんな音楽なのかなと思い始めてからだと思います。それで不協和音(テンション)的な現代音楽のような曲を作るようになりました。

−大学時代にデビューしたと思うのですがデビューのきっかけを教えてください。

卒業する直前ですが「胎(テ)」という韓英合作の演劇の音楽を手伝うことになりました。英国だけでなく韓国でも公演があって韓国に行ったときからが韓国での活動のスタートだと思います。

−そのときに現在の所属事務所のストンプ・ミュージックに見出されたのですか?

それはもう少しあとのことです。まだ2000年のときの話で韓国とイギリスを行ったりきたりで活動していました。

−その頃も現在のような音楽を演奏していたのですか?

東洋的な独特の音楽でした。いろいろな要素が混ざったような音楽でした。

−ヨーロッパでも演奏会などで各地を回ったと思うのですがそのときの思い出はありますか?

ハンガリーが好きで演奏会でもよくハンガリーに行ったのですが首都のブタペストよりもケチケメートという町が好きでよくそこに行ったのです。雪が多く降るところで姉妹校だった「コダーイ(ハンガリーの有名な作曲家)音楽学校」がありました。雪がたくさん降っていた日にある広場にいったのですが、そこに飾り時計があってそこに友達とずっといた思い出があります。



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